昭和40年04月28日 夜の御理解
ご理解に不浄汚れはわが心で犯すこともあり、祓う事もある。不浄汚れは和賀心で祓うこともあれば犯す事もある。不浄とか汚れとか色々にその不浄という事は、どういう事が不浄というのかという事を、お道の信心でも色々追究されております。私が頂いている事だけでも、大変意味が深いのです。今日はその今まで頂いた事がなかった、不浄はこう言う様な事だという事を今晩頂きましたから、皆さんに聞いてもらおう。
一般にこの不浄汚れというのは、人が亡くなりましたり、汚いものを扱ったり、そういうこと不浄とこういう。赤不浄とか、黒不浄とか、女の月のものなんかも赤不浄があっとるから、高良山のような高い位のお宮さんにはお参りができない、と言った様な事を申します。遠慮しなくてはいけない。お道の信心ぶりでいうと、そういうことは決して不浄じゃない。といって汚れたままで良いっていうのではない。
ですからそこのところは不浄汚れがある時には先に断りおいて、願いあることを頼めとおっしゃっておる。自分の心の中に不浄とこう思うときにはね、そのことをまず今日は体が少し汚れておりますと、どうぞお許しくださいと、自分の心に引っかかる時にはそれをお詫びして、願いあることを頼めとおっしゃる。その証拠に例えばそれは、清きところも、汚きところも隔てなくお守りくださる神様ですから。ね、
神様はその汚いところにおんなさらんというような神様じゃない、それこそ便所の中にでも神様の御神徳というのは、満ちわたらせられておるというのが、お道の信心であり、私の拝んでおる神様というのは、そういう神様。だから、その便所の中でも金光様、天地金乃親神様というておすがりさせて頂けばおかげになるのです。それを四神様、四神様は二代金光様ですね。
二代金光様は不浄とは願い事が成就しない事、願うても願うてもおかげにならんという事がある。そういう事を神様はお嫌いになる。してみると私共がおかげを頂ききらんという事は不浄だというふうに、だからそういう頂き方もある。先日から頂くことの中にはもっと難しい不浄という事について頂いたけれどもそれは置いて、今晩私が頂く不浄ということはこう言う様な事が不浄だという事を聞いて頂きたいと思う。
不浄というのは神様が下さっておるおかげをです、おかげでないように思う心が不浄という。神様が下さっておるおかげをです、いかにもそれをおかげでないように思う。してみるとこれは大変広い事になるんですね、例えば病気を致しますか、いくらお願いしてもお願いしてもおかげを頂ききらん。そのお願いしておかげ頂ききらん事も不浄ならです、ほんにどうしてこげん自分だけが弱い体じゃろうかと思う心が不浄だと。
なぜって神様は、その氏子にまたは病気だけではありません、様々な難儀なら難儀という事を持って、本当の道を分からせよう、神の愛を分からせようと、真の信心を分からせよう、真実幸せにしてやろう、という神様のそのおかげに対してですたい、どうして私だけがこげな病気をせんならんだろうかという思う心が不浄だと。そういう不浄を神様が嫌いなさるんです。
ですから、いわゆる真の信心を分からせて頂かんと、私どもの場合はもう不浄だらけであろうとこう思います。日常生活の上において、そら困ったなとこれなんかもう一つの不浄。困ったことなんか有り得ない、ないんです実を言うと。だから私共は分からんから、分からんからとにかく喜んで行けと。それもおかげだとそれはおかげ頂いとると、それは神様の御都合に違いはないと言う様な頂きがあるということ。
それはどうすんの、そりゃ困ったのというときは、もうすでに不浄を掛けているような事。その事によって神様がどういうおかげを下さろうとしているか分からんのですからね。だから私どもはです、日々神様のお働きに対して不浄をかけるようなことがあっちゃならんということを、一生懸命思い続けるということだけでもです、おかげになるということが分かるですね。
今日一日神様が下さる一切のものにです、不浄を掛ける様な事があっちゃならんと心に定めさせて頂いて、困ったを言わんどうしてと言わん、おかげと頂く神様の御都合と頂く。今日、善導寺の春の御大祭で御座いました。椛目からもおかげ頂いたんですが、例によって薬院の先生の御説教であった。いつ聞いてもそれこそ流れるようなリズム感のあるお話でした。もう内容も素晴らしいけれどもお話は名人ですね確かに。
二時間くらいお話になったでしょうけれども、本当に私どもがお話しますと、もうほんなまだ十分くらいしかたっとらんでもう眠い。これはお話が下手な証拠です。だから、私の話はみなさんが本気で頂いてくださらなければだめ。そのかわりに話が下手でも、私の神様から頂いたのであり、いうならば神様の直前であるからおかげになるのです。どんな良い話でもです、目が覚めるような話でもです、話を聞いただけでは良かったと言うだけではおかげにはならん。
そのお話の中にこういうお話がございました。これは甘木の初代がまだ若い時分の頃、ある出社の先生の所の娘さんにです。娘さんなんです。それにですね、不思議な病気にかかってある。どういう病気というとね、ヘソがだんだん長ごうなるということです。これくらいからだんだん帯のようになっていった。切るわけにはいかん、これを体に巻いとかないかん。それを帯のようにまいとかにゃいかん。
奇妙な奇妙な病気がであるですね。ヘソが段々長くなる。ほらもう・・・?さんの先生としてですたい。・・・・・?着物ばきとるとじゃけん。そりけん・・?恥も外聞も捨てり親先生におすがりされた。もうだから、毎日毎日その教会から甘木の親教会に日参をされた。日参をされても日参をされてもおかげにならん。ところがです、そうして毎日日参を続けさせて頂いて、どうぞ娘のヘソが短くなりますごと、といってからお願いを一生懸命された。そういう毎日の熱心な信心のうちにです、ふっと自分の心の中に感じなさることがあった。これが例えば自分のところの娘がですたい。
例えばこの辺に何かこうかさかなんかが出来ますかね、コブかなんかが。それが段々こうやって伸びていくなら、これはもう娘がこりゃ本当にそりゃ困った事であろうけれども、でもこれが隠せれば隠せれる所にあるという事が、もうすでにおくり合わせを頂いておると感じられた。神様が例えば顔にでも出るところをです。愈々隠すなら隠しおおせるところの、目に見えない所にそう言う様な疾患がたとえばあるという事は、もう既に神様のおくり合わせを下さっておるんだと思うたらです。
本当に神様、不平ばかり申しまして、不足ばかり申しまして、どうして信心させていただいておる教会の、しかもそこの娘にです。こういうような難渋な病気ができたのじゃろうかというて、ただその難儀な事だけを感じ、その難儀をお取次ぎをいただいてお願いをされるばっかりであった。いわば毎日毎日そのヘソに不浄かけござったわけです。ね、そういうことになるでしょうが。
ところがです、これはもう既にへそであって良かったということ。ほんな鼻が高うなったり、耳がふとうなったりする病気はどうこうされない。ほらここんにきに大体、今日話しとりました薬院の先生もここにコブが出来だしたそうです。それが段々伸びるそうですたい。それで他のあの後藤という、ご信者さんの中に有名なお医者さんがおられました。これは癌じゃなかじゃろうかというです。あるいはこれは切ったらいかんそうですたい。糸で縛ってから、縛り落とすそうです。
それで癌じゃなかったから、自分のここにちょっと傷が付いただけでおかげ頂いたという話をしておられましたけれどもですね。そういうものがあなたどんどん伸びていったら大変ですわね。ですからもう既に神様はおかげを下さっておったんだ、神様はおくり合わせを下さったんだ、ということを気付かせて頂いたら、今までの事があいすまんということが分かり、途端にいわば有難うならせて頂いたということ。
その有難うならせて頂いたおくり合わせを頂いたことを、その実感そのまま甘木にお参りて御礼を申した時にです、安武先生が仰った。ようよ今分かったなと仰った。それぎりだったそうですよ。それからですよそれが段々枯れだした。そのへそが。段々枯れだして終いにはちゃんと元の所まで枯れてしまって、取れていったというおかげ話を、今日聞かしてもらいました。ね、
いうならば分かるところで分かればおかげになる、そういうことではなかろうか。今日私はそれをですたい、例えば不浄を神様がお嫌いになるということ。それは赤不浄とか、黒不浄と言った様な事は嫌いなさらんけれども、神様から頂いておる、既におくり合わせを頂いておることに対してもです。どうしてじゃろうか?という思い方が不浄になっておかげにならんということ。
解る事も解ったからおかげ頂いたんですけれども、そん時に今までいわばお詫びさせて頂くことによって、今までの不浄を祓うたようなもの。そしておくり合わせを頂いておったんだ、神様が最高のおかげをくださっておったんだこれでもと分かった時ですたい、おかげがおかげと分かった時にそれを堺にそのへそがだんだん枯れだしたということ。私どもはそれをおもうですね。
お互い信心させて頂くので御座いますから、折角信心生活させて頂くので御座いますから、神様から頂きます一切の暑い寒いは言うに及ばず。そのことに不浄をかけるようなことをしてはならない。今日は新しい見方の不浄ということについて、皆さん今日聞いたわけですね。ほほう成程それが不浄になるのか。そうでしょうね。例えばですね、生まれながら良いものをもらっておる、なのにこれはどこがいかんあすこが悪かという。こういうご無礼なことはないですよ。
それを私どもは、平気で神様の姿が見えんからというて、声が聞こえんからというて不平不足を言う様な事では、だからおかげにならん事が分かります。働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見る。だからお道の修行をさせてもらう者はですたい、願うても願うても、やはりおかげにならんという時にはです、これはその事に対して不浄でもかけとるような事はなかろうかと、じっと手を見るのではなくてじっと自分の心をです、自分の思いかたをです、考え方をです、間違うておらんかということを、私は見てみる必要があると思う。
そこに成程、こげな考え方ではおかげが頂けるはずはないと。こういう汚い心ではおかげに成る筈がない。それを分からして頂く時です、もうおかげを頂いたようなもの。そこが改まれていく時に、愈々私はおかげになることを確信いたします。日々の生活の中に、どれほど天地自然の働きに対して、天地に対して頂いているものに対して、お繰り合わせをすでに頂いていることに対して、私どもは不平不足を言うて不浄を掛けている様な事はなかろうかと、もう一辺本気で一つ考えてみなければいけないと思うですね。おかげ頂かにゃいけません。